1932年長崎医科大学卒業直前に永井隆は春雨に濡れたせいで急性中耳炎になり片耳の聴力を失う。それを機に朝倉先生や山田看護婦に囲まれ放射線科医師を目指す。放射線医師としてやる気を持ち始めた時に今度は満州事変で軍医として従軍する。
帰朝後心境の変化著しくクリスチャンの洗礼を受けて、予てから知り合いの下宿の娘緑と1934年に結婚する。子供達が次々と生まれ(長男、長女) あっという間に大きくなりその頃は人生の絶頂にあった。当時は連日結核検診を行い、放射線を体に受けていた。上司も京大へ移り自分の部長昇進の内示が出ていた。
永井はある日体調を崩し、自ら放射線検診を受けた。結果は白血病、余命3年と考えられる。
久しぶりに子供たちと過ごす休日。それが終わると子供達は疎開先へ移って行く。
そうして1945年8月9日がやって来た。原爆で一瞬にして家と妻を失う。子供達の無事を確かめた後、永井はカトリックを中心に小集会を開き原爆病の現状分析と将来展望をわかりやすく説いて回った。
1946年永井の白血病が進み、もう立てなくなっていた。浦上天主堂は完成し翌日から再び鐘が鳴るという。永井は床に伏しながらも原爆病の研究を続けていた。そこへ看護婦の山田が現れた。彼女は先生のお世話をしたいと述べるが、永井はあっさり断る。
1949年聖フランシスコ・ザベリオの右腕が浦上を訪れて、信者が大勢集まった。子供達もお祈りに行っている。永井は一人病床から祈った。

放射線研究の第一人者であり、自らも被爆後、先頭に立ち被爆者の治療に当たった永井先生の半生を淡々と描いている。そして映画上映前になくなった。
永井先生に教えを受け民間の原爆病院を作った院長先生と父は親しくしていただいて、永井先生のお話は詳しくお聞きしている。私も院長先生の元で看護部長や事務長をしておられた方と親しくしていただいた。

 

核原発廃絶問題を置いても医療上の問題は二つあって、一つは当時の放射線科の環境整備が未だ完備せず患者だけでなく医師や看護婦まで命がけだったことだ。
次に原爆病の治療環境の不備だ。どの大学も想定外のこと起きて問題認識からやり直さなければならなかった。永井先生も死にかけている人を見て基礎研究しかできないことを悲しく感じただろう。 本来なら専門分野から言っても治療の最前線に立っている人だったのだ。読者は現代の原発事故に置き換えて考えて欲しい。備えは十分か?

 

舞い戻って来た山田役の津島恵子は実在ではないのだろう。でも実在なら是非看護婦に戻って永井先生の手となり足となり動いて欲しかった。先生も彼女に対してNo.というのは間違いだ。先生の個人的な感情で済まない状況だから。

 

メディアミックスとしては病床から苦労して永井博士が自伝を書きそれがヒットして、続いてコロムビアが藤山一郎を起用してレコード化して大ヒットし松竹が映画を作った形になる。ただし占領軍の目があったため、かなり表現を緩やかにしなければならなかった。それ故、忘れ去られた名作となったのだ。

監督 大庭秀雄
原作 永井隆
脚本 新藤兼人
撮影 牛方敏夫
主題歌 藤山一郎「長崎の鐘」(49年7月発売、 作詞サトウハチロー、作曲古関裕而)

配役
若原雅夫(何度見ても須賀不二男
月丘夢路
津島恵子
滝沢修
三井弘二

 

長崎の鐘 1950 松竹

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