(好評なコンテンツだったのですが、リンクが切れてしまったので張り直して内容を分割し歌手別に再構成しました)
小樽出身の木之内みどりはキャニオンレコード傘下のNAVレーベルから1974年に歌手デビューしたのだがパッとせず、スレンダーな姿態からブロマイドやグラビアで人気が出て、1976年にCMでお茶の間の人気者になり、「前略おふくろ様」「刑事犬カール」などドラマや映画「野球狂の詩」に引っ張りだこになった。
しかし歌手としてはベストテンにもヒットスタジオにも出られなかった。
デビュー曲(1974.5.10)は「めざめ」(作曲三木たかし 作詞 阿久悠)だが、関係者の意思疎通が図れなかったのか見事にこけた。
良く聞いても、お色気路線なのか「高校二年生だからダメダメ」なのか、よく分からない。
「津軽海峡冬景色」を作曲した三木たかし先生にとって、可愛いアイドルのデビュー曲は鬼門なのだ。前年のあべ静江のデビュー曲「コーヒーショップで」は大ヒットだったが、大学生以上の大人をターゲットにしていた。翌年、片平なぎさのデビュー曲「純愛」を作曲して、それも確かに良い曲であり個人的にも非常に好きだが、やはり「可愛い」アイドル向きではなかった。わらべの「めだかの兄妹」は1982年に大ヒットしたが、これは童謡であってアイドルソングではない。
また阿久悠先生の歌詞も迷走している。「困っちゃうな、ホテルに誘われて」を多少柔らかく表現したいのだが、遠慮せずもう少し突っ込めと言いたい。この大御所二人と組むのであれば、十分大人になってからの方がみどりは良かった。
ここで奇跡が起きる。萩本欽一、坂上二郎のマネージメントを行う浅井企画がみどりの救済に手を上げて、テレビ局の仲介で無事円満移籍することになった。ただし浅井企画も女性アイドルの育成に慣れていたわけではなかった。
デビュー曲と間違えられている二曲目「あした悪魔になあれ」(1974.9.10)も同じ作詞作曲コンビだ。
一曲目よりわかりやすいチョッピリ危険な17歳的アイドルソングだ。桜田淳子ちゃんをやや不健康にした感じで、曲と詞の関係も非常に良くなっている。人の歌をパクるのはポニーキャニオンの伝統だから全然構わない。
セールス的には最高75位、売上2万4千枚でもしこれがB級アイドルの再デビュー曲ならばマズマズと言ったところ。何とかファースト・アルバム(半分以上カバー曲の急ごしらえ丸出し) が10月に発売された。
年が明けて三曲目は「ほほ染めて」(1975.1.25)で都倉俊一–阿久悠コンビと組むが、都倉先生も阿久悠先生はやる気があったのですか?歌唱力の無い歌手を歌謡曲路線に乗せてどうするのですか?
予想通り売上は完全にずっこけた。
しばらくレコードが出ず半年後にやっと三木たかし-阿久悠コンビに戻って四曲目「おやすみなさい」(1975.7.25)が発売された。桜田淳子路線を継承しながら、台詞入りで山口百恵を隠し味に加えている。
しかしこれは季ずれだ。夏に発売する曲では全然ない。もしかしたら、これが三曲目だったのかも知れないが、巡り合わせが悪すぎる。二曲目より成績を下げ、オリコン最高位77位、売上1万5千枚に終わった。
当時、桜田淳子は「十七の夏」を、山口百恵は「夏ひらく青春」を歌っており、キャンディーズはその年の2月に「年下の男の子」を大ヒットさせ、同じような内容の「内気なあなた」を6月に発売していた。
「二重唱(デュエット)」で華々しいデビューを飾った岩崎宏美に至っては同じ7月25日に二曲目「ロマンス」を発売している。
どうやら18歳の木之内みどりは、歌に関しては消化試合を戦っていたようだ。二枚目のアルバムはひっそりと12月に発売された。
結局、最初の二年間の歌手活動は、浅井企画に移るも阿久悠の小父さん趣味に引っ張り回されて失敗に終わったわけだ。どの曲も大人びてクールな木之内みどりには相応しいものではなかった。
しかし1976(三年目)に入ると、木之内みどりは阿久悠の手を離れて見事に変身する。
木之内みどり(2) 「学生通り」1976
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