大投手が事故で片足を失い失意の日々を送るが、あるきっかけにより再びマウンドに立つまでを描く野球映画。千葉ロッテの井口監督が在籍し世界一になったホワイトソックスで戦前に起きたモンティ・ストラットンの実話を元にしている。
ダグラス・モローの原作をガイ・トロスパーが脚色し「打撃王」のサム・ウッドが監督した。
主演はモンティのご指名によりジェームズ・スチュアート、ヒロインはジューン・アリスン。二人の共演作は本作と「グレン・ミラー物語」「戦略空軍命令」の三作があるが、その第一作である。共演はアグネス・ムーアヘッド(「奥様は魔女」のアマンダ役)、フランク・モーガン(「オズの魔法使い」の大魔王役)。原作者ダグラス・モローがアカデミー原案賞を受賞した。大リーグ選手やOBも多く友情出演する。モノクロ映画。

あらすじ

かつて大リーグ選手だったバーニー・ワイルはふとテキサス州ワグナーの草野球を覗いて急に目を輝かせた。大リーグでも通用する190cm以上ある右投げ速球投手を発見したのだ。その男はモンティ・ストラットンと言って農場を母と経営しているが、大リーグへ進むことが夢だった。しかし父が亡くなっていたので、安定を求める母は最初反対した。バーニーは彼と起居をともにして彼を指導すると、モンテイは天井知らずで上達した。バーニーとモンテイは母を何とか説得して、カリフォルニアにいるシカゴ・ホワイトソックスのトライアウトに挑戦することにした。 ホワイトソックスのジミー・ダイクス監督はバーニーの古い友人だったのだ。彼はテストを受けている期間にエセルと運命的な出会いを果たす。
テスト期間も終わり、ホワイトソックスはモンテイと選手契約しバーニーもコーチとして雇った。シカゴの対ヤンキース戦でモンティはマウンドに立つが、強打者ビル・ディッキーに痛打されて降板し、マイナーリーグのオマハに送られる。そこはエセルの故郷であり、彼女と再会したモンティはハッスルして連戦連勝して再び大リーグに昇格する。そこで彼はエセルに愛を告白し、無事結婚する。復帰戦の相手はヤンキースだったが、今度はビル・ディッキーを抑えた。
それから歳月は経って一子を儲けたモンティは2年続けてチームの最多勝投手になった。オフに故郷テキサスで狩りに行った時、躓いて猟銃で自分の右脚を打ち抜き、手術により切断する。無気力になったモンテイは義足を付けようともせず、家族に当たっていた。しかし愛児がヨチヨチと歩こうとしているのを見て、モンティは反省し義足で歩き始め、妻の誘いで投球の練習も始めた。
やがてコントロールも定まってきた頃、特別試合が行われることになった。モンティは妻や母に一緒に見に行こうと呼びかけて出掛けた。実はモンティがユニフォームを着て先発投手に名を連ねていることを家族は知らなかった。立ち上がりこそ連打されたが、立ち直ったモンティは好投し、2対1のリードで迎えた最終回、ピンチを迎えるが監督や仲間の声に助けられ完投勝利をあげる。

雑感

昔何度か見た映画だが、レイ・ミランドが似て非なる野球映画「春の珍事」に出演していることから、かなり大人になるまで区別がつかなかった映画である。子供の頃はジム・スチュアートとレイ・ミランドの区別がつかなかった。

この時代は、1946年に「我が人生最良の年」で傷痍軍人ハロルド・ラッセルがアカデミー助演男優賞を受賞したように、障害者に対する意識が強かったために、こうした映画が制作されている。
実はジューン・アリスンも子供の時、事故で背骨が折れ医者からはもう歩けないと見放され、4年間首から尻までギプスで固められる生活を強いられたので、リハビリの苦しさをよく知っていた。彼女の場合は水泳が得意だったのが救いになった。

アグネス・ムーアヘッドといえば、何を演じてもサマンサの母親アマンダの姿が強烈だが、この作品にクレジットがありながら出ていないと思っていたら、上手く母親役に化けていた。

最後に右脚を失ったモンティが登板したというのは、実際は1939年5月1日(二十六歳)のシーズン真っ最中に行われたカブスとの慈善試合であり、ファンの前で彼も元気な姿を見せただけだった。その後しばらく彼はホワイトソックスのコーチを勤めていた。義足の扱いが上手くなった1946年(三十四歳)に大リーグに復帰するためマイナーリーグのマウンドに再び立ったが、ダブルAまでしか昇格できなかった。
映画制作期間の1948年に彼はハリウッドに移り、付きっきりで技術指導を行ったおかげで高校時代アメリカンフットボールの選手だったジム・スチュアートのピッチングの腕前は上達した。後ろからのカメラなので確証はないが、カーブも投げていてもストレートとのフォームの違いが丸わかりなので、代役でなくジミー自身だと思う。それだけでなくジューン・アリスンもキャッチボールがかなり上手かった。
1949年から53年までモンティは再びマイナーに復帰している。

大リーグで唯一義足の投手がマウンドに立ったのは、1945年にバート・シェパードだけ。彼はメジャーに昇格経験の無いマイナー選手であった。大戦中P38ライトニングで墜落して片足を失い傷痍軍人として帰国し、もう一度マウンドに立ちたいという希望に沿って1945年ワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)が大リーグに昇格させた。その試合は前の投手が5安打3四死球7失点で試合を打ち壊した直後だったので敗戦処理に出番があったが、それ以降大リーグに出場機会はなかった。それを見てモンティも大リーグ復活を目指したのだ。
一方、隻腕の投手は古くはヒュー・デイリー(1893年にノーヒッターになり、二十三勝を挙げる)、最近もジム・アボット(1991年に大谷の在籍するエンジェルスで十八勝を挙げ、ヤンキースに移籍後1993年にノーヒッターになった)がいる。

ここでメジャーリーグと言わずに大リーグと言ったのは、英語のセリフを聞くと分かる通り口語で Big League と呼んでいる。これが日本人がメジャーリーグを大リーグと呼んだわけである。ちなみに大リーグボール3号を星飛雄馬が投げた後、あれはアメリカの映画(春の珍事)のようだと評していた。日本でメジャーリーグという言葉が普通に使われたのは77年78年のヤンキース・ドジャーズのワールドシリーズでなく、87年に新しくNHKBSの大リーグリーグ中継が始まって、メジャーに明るい福島さんや村上元投手ら解説者がメジャーという言葉を使い出したからだろう。

ちなみに高校野球では今治西や釜石などで義足の投手や内野手が甲子園に出場して活躍したことがある。

今日のセリフ

モンティが脚を失くし自暴自棄になっている時に、我慢していたエセルが言った言葉。

Ethel: You told me once, “A man has to know where he’s goin’!” Where are you goin’, Monte?

あなたはかつて私に行ったわ、「男は目標を持つべきだ」。あなたは何をしたいの?

スタッフ

製作 ジャック・カミングス
監督 サム・ウッド
脚本 ダグラス・モロー 、 ガイ・トロスパー
原案 ダグラス・モロー
撮影 ハロルド・ロッソン
音楽監督 アドルフ・ドイッチェ

キャスト

モンティ・ストラットン ジェームズ・スチュアート
エセル ジューン・アリソン
バーニー・ワイル(コーチ) フランク・モーガン
ストラットン夫人(母) アグネス・ムーアヘッド
エディ  ビル・ウィリアムス
テッド ブルース・コーリング
ビル・ディッキー 本人 (「打撃王」」にも出演。ヤンキースの背番号8は強肩強打の捕手だった彼とその後継者である大捕手ヨギ・ベラの二人を讃えて与えられた永久欠番)
ジミー・ダイクス 本人

蘇える熱球 The Stratton Story 1949 MGM製作・配給

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