1976年にデビュー三年目を迎えた木之内みどりは明大中野高校を卒業し、ブロマイドアイドルからCMタレント、女優として大きく羽ばたき始める。
そして歌手としても大きな転機を迎える。三木たかし+阿久悠のおじさんコンビから解放されて、その後黄金コンビになる作詞家松本隆(はっぴいえんど出身)とニューミュージック系作曲家の組み合わせに委ねられる。
2月発売の「学園通り」は、チューリップの財津和夫の作曲だ。学生時代に付き合った彼との別れを女性が引きずっている詩に、大人っぽくて暗い曲を合わせた。いかにもチューリップの雰囲気が漂っている。
映像が翌年の映画で相応しくないが、そのうち差し替えます。
ここで1976年当時のアイドル歌手界を俯瞰してみる。6月に山口百恵が「横須賀ストーリー」(作曲宇崎竜童、作詞阿木耀子)で脱アイドルに成功し、8月にピンクレディーが「ペッパー警部」(作曲都倉俊一、作詞阿久悠)で子供向けお色気アイドルとしてデビューする。
アイドル市場はニキビ面の中高生限定とする狭いマーケットから、幼児から大人までの広大なマーケットに広がりつつあった。
当時の大学生に絶対的人気があったアイドルと言えば南沙織、キャンディーズ、太田裕美たちである。とくに初期の太田裕美は筒美京平/松本隆コンビが担当しており筒美京平のポップさを表に出していた。木之内みどりはニューミュージック系作曲家を起用し、太田裕美の似て非なるノスタルジック路線を選択したわけだ。
シングル「学生通り」の売れ行きはさほど良くなかったが、当時オーディオ装置に金をつぎ込んでいた若者層とターゲットが重なることから、この曲を中心にしたアルバム「透明のスイッチ」の制作を行い5月に発売した。
続いて明るく夏向き曲調のシングル「グッド・フィーリング」(松本隆/財津和夫)を7月に発売してオリコン最高60位、2.4万枚のセールスを上げた。気を良くしたNAVレコードは同名のアルバムを9月に発売する。
秋は11月25日に7枚目のシングル「東京メルヘン」が発売になった。一年間に3枚のシングルを発売することはデビュー以来初めてである。今作品では作曲家として財津和夫でなくフォークシンガー吉田拓郎を起用した。
吉田拓郎は1974年に森進一「襟裳岬」を作曲してレコード大賞を受賞していた。ただ女性アイドルに曲を提供するときは、独特の癖というか節があって誰が聞いても拓郎の女性曲だと分かる。そして渋いが心に残る曲を書くのだ。冬型の曲にはぴったりな作曲家だ。
この「東京メルヘン」もそうだった。ただし松本隆の歌詞が木之内みどりが年上のカレに相手にされないという状況を描いたものだったので、個人的には脳内置換して十人並みの器量の女性が男に相手にされていないと考えるようにしていた。そうしないと男に対して腹が立ってくるから。(その時は自分が子供だったから分からなかったが、木之内みどりも19歳の女の子に過ぎなかったから30過ぎた相手を好きになった場合、こういう状況に陥ったのだろう)
この曲で彼女は年末年始のバラエティ番組に出まくっていた。着物で歌っていることもあった。(見ていて腹が立った)
売上データは分散してしまって残っていないから分からない。財津の「学生通り」同様に別れ歌だが、おそらく吉田拓郎の歌を歌ったことで、イメージが少し変わったと思う。
こうして大きな転機を迎えた三年目は幕を閉じた。グラビアアイドルと言うだけでなく、女優、タレント、歌手という花を咲かせた一年だった。