安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師の海北有松(かいほう・ゆうしょう)の回顧展を、作家高橋源一郎の長女・橋本麻里(細川護煕が理事長を務める細川家伝来の美術品を収蔵、展示、研究する公益法人永青文庫副館長)が司会を務め、山本英男京都国立博物館学芸部長兼京大教授が生解説していた。
ミュシャ展と同じ日の生放送だったために、ミュシャ展より2時間ほど開始が遅れたが、博物館側が残業してくれたようだ。博物館No.2の学芸部長が出演すると、同じニコ生でも扱いが格段に違う。
同時代の狩野永徳や長谷川等伯ほど有名ではない画家であり、現存する屏風や襖絵も必ずしも多くないのに、非常に中身の濃い生放送だった。途中、けものフレンズ文春砲の小ネタを挟みながら。

 

 
海北友松の父は浅井長政の家臣だったが合戦で討ち死にし、有松は東福寺で僧籍に入る。そこで絵画の才を見出されて、狩野派に属した。
狩野派は元来、宋元画的な山水画を専門に描いていたアトリエだったが、2代目元信の時代に幕府、朝廷をスポンサーにする中で色の付いた大和絵の障壁画も描くようになって独自の画風を得る。元信の孫永徳織田信長豊臣秀吉をスポンサーに得て安土城障壁画(現存せず)、聚楽第障壁画などを描いたが、その弟子に当たるのが海北友松である。

狩野派にいる頃の話だが、有松は斎藤利三(明智光秀重臣で春日局の父)、東陽坊長盛(茶人)と懇意にしていた。有松は文人肌だったのだ。これは職人肌だった狩野永徳長谷川等伯との違いである。有松と利三の関係は本能寺の変で有名だが、長盛が千利休の門人だったことから細川幽斎と知り合ったことが有松の後半生を非常に華やかなものにする。今回、幽斎と有松のスポンサー関係を明らかにする資料を初めて公開しているが、有松と秀吉の関係を明らかにする資料も公開されている。

 

 
永徳が亡くなった頃に有松はフリーとして独立したと考えられる。既に60歳近かったが狩野派のライバルである長谷川等伯の画法に影響されたりして、次第に独自の画風を開拓する。

 

 
それがまず建仁寺塔頭(たっちゅう)障壁画に反映されている。それは絵の外の空間を感じさせるものだ。龍の鼻毛でも有名な建仁寺雲龍図は誰もが教科書等で見たことがあるだろう。
さらに山水図では省略画法を突き詰めて、もはやデフォルメとしか思えない域に達している。
ところが細川幽斎の紹介で八条宮智仁親王のために「浜松図屏風」「網干図屏風」も描いている。妙心寺の「琴棋書画図屏風」に至っては逆に漫画の雰囲気が出てくる。そして最高傑作とも言われるのが「月下渓流図屏風」である。友松が文人サークルで語らいながら絵の着想を得ていた様子が偲ばれる。

 

 
この展覧会は5月21日まで。お早くどうぞ。

みんなで巡ろう「海北有松」展 【niconico×京都国立博物館】2017.5.9

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