訃報を書くのは嫌なんだけどもなあ。
朝丘雪路さんが4月末に亡くなっていることが明らかになった。5年ほど前からアルツハイマー症候群を患っていたそうだ。
日本画家伊東深水と正妻ではない料亭の女将の娘として生まれ、宝塚音楽学校に入学し、1952年に宝塚歌劇団に入団した。1955年に退団し、女優、ジャズ歌手として活動。とくに水谷良重(現八重子)、東郷たまみ(洋画家東郷青児の娘)と七光り三人娘を組んで話題になった。
この頃の映画で印象に残るのは松本清張原作の「眼の壁」である。宝塚の先輩鳳八千代がヒロインなのだが、朝丘雪路の方が綺麗なのだ。もっともそういう演出だったのだが。
1962年、NHKバラエティー「夢であいましょう」から今月の歌「夜のためいき」、この頃は正調ジャズ歌手でもあった。
1965年に紅白歌合戦で披露した「ハロードーリー」、当時からカーバーソングにも小節をつけて歌っていた。
1966年からの本テレビ系「11PM」MCに抜擢された大橋巨泉と一緒に金曜アシスタントに就任する。
1967年に医師と結婚して男子を産む。その間、「11PM」の金曜アシスタントの座は応蘭芳に譲っていた。
翌年子どもを夫に託して離婚する。そして、「11PM」の金曜アシスタントに復帰して、以後14年間にわたって続けていた。
1968年には、当時流行していたセクシー路線に乗り、「スキャンドール」を発売。
1970年には歌謡曲路線に復帰して、「雨がやんだら」(作詞なかにし礼、作曲筒美京平)をCBSソニーから発売し、大ヒットとなる。(最高5位、年間23位)
1973年には津川雅彦と再婚し一女(真由子)をもうける。
それでも朝丘雪路の天然ボケは変わらずお茶の間に愛されて、翌1974年には、「夜のヒットスタジオ」2代目アシスタントに起用された。
しかし8月「津川雅彦長女誘拐事件」が起こり、大騒ぎとなった。幼児は無事解放され犯人は逮捕されたが、東京新聞は芸能人が子どもを公開することに問題ありとキャンペーンを張った。
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その後も、テレビ界で有数の天然ボケタレントとして君臨した。
今は死語となった「ボイン」という言葉は「11PM」で朝丘雪路の胸を見て大橋巨泉が言い出したそうだ。
朝丘は超お嬢さまだったため、家事はまったく出来なかったが、夫には「浮気のススメ」を説いていた。
金さえあれば、こういうことも許されるのだろう。
ご冥福をお祈りします。
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