1977年に天才ベーシスト鈴木勲のバンドでジャズ歌手としてデビュー。そして1978年秋にカネボウCMソング「ひとつ年上」(作曲比呂公一は植木等の長男)でシングルデビューする。
その後、宮本典子は新曲「エピローグ」(作詞呉田軽穂ことユーミン、作曲梅垣達治)で新人賞戦線に参加して露出も多くなるが、何故かシングル・セールスに繋がらない。
続く「ラストトレイン」(筒美京平作曲)で1980年東京音楽祭外国人審査員団賞受賞。外国人には絶賛されるのに日本人相手にはやはり売れない。
翌年には黄桜マイルドのCMソング「マイルド・コネクション」(作詞山川啓介、作曲網倉一也)がスマッシュヒット。しかしシングルを売るとバランスが悪くなって、アルバムが売れなくなる。
何だかんだで日本の芸能界に嫌気が差して、ライブ活動や音楽講師業に専念する。90年に渡米してmimiの名前でラリー・グラハムのグラハム・セントラル・ステーション再結成に参加して日本に凱旋公演。エディー・マーフィーだとかブラザース・ジョンソンだとかのバンドに参加して華々しいキャリアを積むが、その辺りは平成の話。
この人は1979年組と言うことになる。この組は桑江知子がレコ大最優秀新人賞を受賞して、不毛の年呼ばわりされている。
それは見当違いで、たまたま第二次石油ショックで一時的に景気が悪くなって購買意欲が落ちただけだ。
この年から従来の歌謡曲・ニューミュージックの二元対立では捉えられない新人歌手が次々と現れた。例えば竹内まりやも1978年11月にデビューして79年に新人賞を受賞している。
次は竹内のデビュー曲「戻っておいで・私の時間」。
Related posts:
宮本典子 「ラスト・トレイン」 1979