ヌーヴェルヴァーグの代表的女流監督アニエス・ヴァルダが脚本・台詞を書き、自ら監督した「幸福」を鋭く追求した映画。映画音楽はW・A・モーツァルトの作品を使っている。
主演はベルギー人ジャン・クロード・ドルオーとその妻クレール・ドルオーで、妻の方は全くの演技素人。二人の幼い子供も共演している。他に出演マリー・フランス・ボワイエ
製作は「シェルブールの雨傘」のマグ・ボダール
1965年度ルイ・デリュック賞ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞している。

あらすじ

叔父の内装業を手伝うフランソワと仕立て屋のテレーズは結婚して二人の子供に恵まれた。二人は心から愛し合っていたが、フランソワは仕事先の近くの郵便局でエミリーと出会いテレーズと違う好感を持つ。
やがてフランソワの兄夫婦に二人の甥に続いて初めての姪ができる。しかしフランソワは三人目を作りたがらない。かと言って夜のお勤めは欠かさない。フランソワはテレーズの醒めた性欲に満足し切れなかったのかもしれない。エミリーが同じ街に越してきた。すでに何度も会い、ランチ・デートもして気心も知れてきたところで、フランソワは内装の手伝いを口実に土曜日彼女の部屋に入り込み、彼女を抱く。彼女は情熱的な女でフランソワは夢中になってしまう。
一方でテレーズは女の感で他の女の影を感じる。夏にまた子供たちを連れて森へ行き、蚊帳の中で子供たちを寝かせつけ、最近の変化の訳を夫に尋ねた。夫はつい正直に答えてしまい、今が幸せだが君が嫌なら彼女と別れると言う。それに対してテレーズはあなたが良ければ私は構わないと答え、今までになく大胆に夫に迫る。これまでにない情事に満足したフランソワは寝落ちしてしまったが、子供たちの母を呼ぶ声で目を覚ます。妻は池で溺死体で発見された。
フランソワは憔悴しきって悲しんだ。エミリーもテレーズの死を悲しんだ。
やがて兄の元に預けていた子供たちも引き取り、保育園の送り迎えもエミリーが代わりに面倒見てくれるようになった。秋にはフランソワ、エミリーと子供たちで休日を楽しんだ。テレーズがエミリーに変わっただけで何事も変わらないかのように日々は過ぎていく。

雑感

アニエス・ヴァルダ監督は暗転を使わず、赤転を使う。画面が変わるとき、画面が真っ赤に染まるのだ。これは違和感があったが、日常の幸せに違和感を抱けという意味だろうか。

ヌーヴェルヴァーグ作品だが、非常に受け入れやすく、誰もが考えさせられる映画だった。フランソワが二人に愛され幸せだと思ったとしても、正妻はそう感じられないので、最愛の子供を残しても死を選ぶ。

エミリーは後妻の座に座るのだろうが、果たして髭も胸毛もボーボーの精力絶倫夫フランソワを持って、自分がかつてのテレーズの立場に追い込まれないか心配にならないのかな。

この映画を見て感じた事は、心から幸せという状態が続く事はない。結局誰かを傷つけている事だから。
幸せとは視野が狭くなって自分の幸せだけ考えている状態ではないか。だからと言って、平凡で誰も傷つかない人生が幸せなのだろうか。

また男の幸せは多く勝ち取ることで、女の幸せはたった一人で良いのだ。

ジャン・クロード・ドルオーはこの後ベルギーでブレークしてテレビスターになった。プロ女優でもないのに胸をはだけて熱演した奥さんはその後何も出演してないようだ。子供たちも俳優にはならなかった。

美人のマリー・フランス・ボワイエも映画の世界では大成しなかったが、テレビ出演の他多才で歌手でありノンフィクション作家としても活躍したそうだ。。「パリの屋根の下セーヌは流れる」で「樽男」のシーケンスを演じて子役として目立っていたマリー・フランス・プルーマと間違えられたこともあるが、プルーマより5つほど年上だ。。

スタッフ

監督 アニエス・ヴァルダ
製作 マグ・ボダール
脚本 アニエス・ヴァルダ
台詞 アニエス・ヴァルダ
撮影 ジャン・ラビエ 、 クロード・ボーソレイユ
音楽 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト

キャスト

フランソワ ジャン・クロード・ドルオー
テレーズ クレール・ドルオー (クレジットなし)
エミリー マリー・フランス・ボワイエ
ギゾン サンドリーヌ・ドルオー (クレジットなし)
ピエロ   オリヴィエ・ドルオー (クレジットなし)

幸福 Le Bonheur 1964 フランス製作 日本ヘラルド国内配給

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