ジュゼッペ・トルナトーレ監督がお送りする、イタリア版「東京物語」だ。
シチリアに住むマッテオ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、いつもの夏ならば子供たちが帰郷するのに、今年は寂しい思いをしている。
そこで思い切って、都会の子供たちを訪れることにした。
ナポリ大学のアルヴァーロ(サルヴァトーレ・トト・カシオ)は留守だった。
何度連絡しても留守電になっている。
ローマでは議員秘書をしているカニオ(マリーノ・チェンナ)が迎えてくれた。
マッテオは、いつかカニオが議員になることを夢見ている。
フィレンツェで泥棒に襲われカメラを潰されるが、娘トスカ(ヴァレリア・カヴァーリ)が警察まで迎えに来てくれる。
トスカは、ファッションモデルをやっていた。
独身なのに家には子供がいた。
ミラノに行くと、オーケストラの打楽器奏者グリエルモ(ロベルト・ノビル)の顔色は冴えない。
孫に理由を尋ねると、家庭がうまくいっていないと言う。
最後はトリノのノルマ(ノルマ・マルテッリ)。
電話会社の重役だという話だが、実は単なるオペレーターである。
マッテオは再びローマに行き、子供たちを呼ぶ。

子供が不幸になったのは、父親(マストロヤンニ)に責任が有ると言う人がいる。
父親の世界観が、子供たちを不幸にしたのだろうか。
父親は、一生を役場の戸籍係で通した人だ。
閉鎖された島にいて、彼は自分はもっとできた、やればできた、と思っていた。
すなわち劣等感が強かった。
したがって子供たちに過度の期待を抱いてしまう。
それが子供たちを、スポイルしたというわけだ。
しかし子供が不幸になったのだとしたら、すべて運命である。
父親からの影響は生まれたときから刷り込まれている。
運命を変えたければ、自分でもがくしかない。
問題は若い頃、人が自分の運命を悟ってないことだ。
父親には、どの子も不幸に見えるのだが、子供たち自身は人生を楽しんでいるのかも知れぬ。
今は多少沈んでいるが、明日はあるさ。
自殺した息子を除いては。
「東京物語」で小津安二郎は、原節子という客観(あるいは視聴者の目)を持ってきた。
一方、トルナトーレは、父親の主観にこだわった描き方をした。
観客は父親の主観にこだわる見方も当然できるし、あえて視線をずらして第三者の目で楽しむこともできよう。
音楽のエンニオ・モリコーネが指揮者役で出演している。

みんな元気 1990 イタリア・フランス

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